世界ナゼそこに日本人。マチュピチュの野内与吉とは?プロフィール(経歴・結婚・家族)や開拓エピソードについて

こんにちは!メッシーです!

世界遺産として有名なマチュピチュ遺跡

のマチュピチュ村を作った日本人が

「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」

で紹介されます。

マチュピチュ村を作った人が日本人?

気になったので調べてみると野内与吉

という日本人が初代村長ということが

わかりました!

ボクは偉人が大好きなので、今日は

そんな野内与吉さんについて

ご紹介します。

マチュピチュの野内与吉とは?

※写真は東京大学総合研究博物館のサイトより抜粋

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野内与吉さんとは何をした人物なので

しょうか?

調べてみると、ペルー国鉄の拡張に

従事され、その際に訪れたマチュピチュに

定住することとなりました。

しかし、当時のマチュピチュ村は

文明の発展が乏しかったそうです。

そこで野内さんは川から用水を引き

畑を作ったり、自分で水力発電の

設備を作り電力を供給したり、

村の発展に貢献されたそうです。

そしてあげくの果てには自分で

ホテルを開業し、一部を公共施設

として開放。

う〜ん・・まさに神ですね!

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もともと、マチュピチュ遺跡は

とてつもない辺境にあるので、

マチュピチュ村の発展や観光業を

受け入れる環境がないと

今のマチュピチュ遺跡の観光発展は

ありえません。

野内さんがマチュピチュを世界遺産に

したと言っても過言ではないですね!

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野内与吉のプロフィール・経歴

【プロフィール】

本名:野内与吉(のうち よきち)

生年月日:1895年(明治28年)11月18日

年齢:享年73歳

出身:福島県安達郡玉井村

【経歴】

1895年 福島県安達郡玉井村に生まれる

1917年 ペルー共和国へ出国

1923年 ペルー国鉄に勤務。マチュピチュ集落定住

1935年 マチュピチュ集落に村唯一の

    ホテル(ノウチ ・ホテル)を建てる

1939年 マチュピチュ集落最高責任者に任命される

1941年 マチュピチュ村の創設

1948年 マチュピチュ村村長に任命される

1958年 三笠宮殿下のマチュピチュ遺跡見学際

1968年 故郷である福島県大玉村に帰郷

1969年 8月29日 – 現地で逝去。

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いまではペルーに行くのも旅行程度ですが、

大正時代に地球の反対に船で行くのは

すごい事だったんでしょうね・・・

ちなみに、結婚はというと

「マリア・ポルティージョ」

「マリア・モラレス」

という女性と二回結婚しており、

それぞれ5人ずつ子供を設けて

いらっしゃいます。(計10人)

ビックダディーかよ!!!

マチュピチュ開拓のエピソード

エピソード1:なぜペルーへ?

時は大正時代。野内与吉さんは当時ゴム景気に

湧くペルーに惹かれて21歳の時い移住することを

決意します。

野内さんは次男でしたので海外で成功することを

夢みたんでしょうね!

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ペルーではゴム農園で働く事となりましたが、

現地の労働がブラックだったので

1年でやめました。

その後はアメリカなどを放浪し、結局ペルーに

帰って来ます。ペルーでは国鉄に勤務する

事となり、鉄道拡張で訪れたマチュピチュに

心惹かれ、定住する事を決めたそうです。

エピソード2:マチュピチュ初代村長に!

野内さんがマチュピチュに定住して20年

以上経過したある日、近隣の川が氾濫し、

マチュピチュ村は土砂災害に見舞われました。

野内さんはペルー政府に対していち早く

支援を要請、必死で復興に従事します。

そんな彼の活躍は新聞でも報じられ、

その功績から1948年にマチュピチュが

村に昇格した際、ペルー政府から

初代村長に任命される事となりました。

まとめ

いやぁ・・マチュピチュ村の初代村長

が日本人だったなんて驚きですね。

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テレビで放映されるから気になって

調べてみましたが、歴史上の偉人

と言っていいほどすごい人でした。

日本人だからということではないですが

ペルーの教科書に載る日を楽しみに

しています!!!

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